プロとアマの境目について語るな。一流と二流の違いを語れ


勝手ながら補足させていただくと、

手塚貴晴さんという建築家がいる。一種の天才なのだと思うのだが、5年ほど前、TVで見た光景が忘れられない。
部下の設計者が徹夜で作ってきた建築模型を一目見るなり「これはゴミだね」と言って、ガシャリと壊してしまったのだ。
僕はそのころ駆け出しコンサルタントになったばかりで、部下の人の痛みがよく分かった。
それと同時に、本当にたくさんのことも学んだ。


あなたの作ったものはゴミである、あるいはプロとアマの分岐点

これをやっていいのは一流だけだ。「私は一流だ」と言い切れない程度の人間は絶対にやってはならない。
理由は書かないが、書かなくても同意してもらえるのではないかと思う。


そして問題のプロ論。

そして、「頑張ること」それ自体に価値があるのはアマチュアの世界、価値がないのがプロフェッショナルの世界である。
全ての人がプロフェッショナル的に仕事をするべきだ、とは僕は思わない。
でももしプロフェッショナルになりたいのであれば、「僕、努力したもん」は封印しなければならない。そんなこと、他の人は知ったこっちゃないのだ。

プロとアマの境目について語る、という行為は甘美だ。俺も「プロのSEとは何か」とか若手に向かって思いっきり説教してみたい。してみたいが、絶対の禁忌にしている。
なぜか。「プロとは何か」なんて客観的には自明だからだ。
SE稼業で報酬をもらっている人は全員プロのSEだ。腕が無かろうが顧客の評価が低かろうが関係ない。
プロ野球選手が全員プロであるのと同じ意味で、金もらって仕事しているSEは全員プロのSEだ。


にもかかわらず、我々が「プロなら最低限この程度できてもらわないと」という主観的なラインを捏造して、レベルの低い同業者を非プロ扱いしたくなるのはなぜか。
それは、はっきり言って大変に気持ちよいからです。
横軸に人数、縦軸にレベルを取ると、どんな世界もつぶれたピラミッドの形になるが、プロ・アマのラインを恣意的に捏造すれば、自分を一流と同じ高位のグループに、相手を劣位に置くことができて大変気持ちいいのです。


プロ論をぶっている人を観察すれば、例外なく(本当に、一人の例外もなく!)自分をプロの側に含めていることに気付くだろう。
自分がアマ側に転落しないように、恣意的に線を引いているから、誰でも必ずプロになれる。
これは本当に危険な行為で、中年期の職業人の精神を腐らせる元凶みたいなものだ。
お勧めはプロ・アマの代わりに一流と二流の境目について考えることだ。こうするとさっきまで馬鹿にしていた人と自分が同じグループに入ることを発見して、大変恥ずかしくなるわけです。

俺にも恣意的な線引きをさせてもらえれば、「一流の(あるいは師の)目から見れば、俺も新人も似たようなものだろうなあ」という自覚が無い中年はダメです。下ばっか見てないで上見ないと。

まとめ

成果物をゴミ扱いしても、自分が一流なら感謝されるだろうし、大した人間でなければ「何だこいつ」と思われて終わりだ。
「何だこいつ」と思われた原因を、自分ではなく相手に求めているうちは一流にはなれないと思うがどうか。ちょっと強引か。