ベイトソンのイルカ、学習の跳躍

イルカに新しい芸を教える

ベイトソンの「精神と自然―生きた世界の認識論」に書いていたことなんだけど、調教師がイルカに「新しい芸を覚えればご褒美がもらえる」というルールを理解させるのは、えらく難しいことらしい。
イルカの調教はイルカが何かおもしろい動作をする -> すぐ魚を与える -> イルカはその動作を繰り返そうとするというオペラント条件付けの枠組みで進むのだが、この繰り返しだけでは、1つの芸−例えばジャンプ−を覚えたイルカは、それをひたすら繰り返そうとし、目新しい動きを見せようとしない。
だから違う芸を教えるセッションでは、調教師は新しい動きを誘発するために、イルカがジャンプしてもご褒美の魚を与えないのだが、このことはイルカを大変混乱させる。
調教師が設定したゲームのルールは「前回と違うことをすれば魚がもらえる」なのだが、イルカは「ジャンプすれば魚がもらえる」ゲームだと思っているので、「ルールが急に変わった。なぜだ!」と悩むわけだ。
いらだったイルカがヒレで水槽を叩くと、調教師はその動作に対して魚を与え、これを繰り返すことでイルカは「ヒレで水槽を叩く」という芸を覚えるが、同時に「これは水槽を叩けば魚がもらえるゲームだ」と勘違いする。
イルカは次の訓練でも水槽を叩いてみせるが、魚は与えられない。再びイルカは混乱し、偶然見せたおもしろい動作に対して魚が与えられる。
この学習と混乱の繰り返しの果てに、イルカにとって奇跡の瞬間が訪れる。

P-164前回魚にありつけた動作を次もやってみるという不毛な繰り返しを、このイルカは14回続けた。その間彼女が
新しい動作を見せたのは偶然からと判断してよいだろう。ところが14回目と15回目の間の休憩時間に、彼女は
非常に嬉しそうなようすを体で示した。そして15回目が始まるや、いきなり八つの演技を入念にやってみせた。
そのうち四つは、この種のイルカでは観察されたことのないものだった。ここでイルカはひとつの跳躍を、論理
階型間のギャップの飛び越えをやってのけたのである。

自分はどうだ

この話を読むと、自分もまたイルカと同じ勘違いしてるんじゃないの...という疑念がざわざわと湧いてくるのだ。
今学んでいる芸は何かの一部分に過ぎないのに、それだけ繰り返せばいいと勘違いしている... どうも、そうなっている気がする。
これは「芸は1つより3つあった方がいいよね」という話ではない。

  • あるコンテキストに入ったときに、自分が本当にやるべきことを勘違いしていたとしても、とりあえずは正解の動作(=ジャンプ)ができてしまうこと
  • 勘違いしていてもご褒美がもらえるために、勘違い自体が強化されてしまうこと

ここに罠がある。「俺は今うまく行っているし、成長しているし、満足もしている」という人ですら、この罠にかかっている可能性がある。
自分が置かれている一階上のコンテキストを正しく見抜いた瞬間に、私たちはイルカと同じく、爆発的な学習の跳躍を見せるのだろう。