事実と真実はどう違うか。また裁判官のキャリブレーションについて


俺が通ってるジムのステアマスターにはテレビが付いていて、いつもテレビ見ながらをステアマスター漕いでるんだけど、この前北斗の拳の再放送見ようと思ってテレビ点けたら放送大学の講義をやっていて、これがえらく面白かった。
それは科学哲学の講義で、テーマは「事実と真実はどう違うか」というものだった。
話の要点は以下の3つだ。

1. 真実は観測できない

先生はこんなフリップを出して話を始めた。
「何かを観測して得たデータを事実と呼ぶならば、事実には必ず誤差が含まれています。事実の集積から、何らかの手続きで誤差を消去して抽出したものを真実といいます」

ガタガタのヒストグラムという事実を集めて、そこから滑らかな曲線を描く真実を取り出すわけだ。


先生の定義によれば、真実は事実のように直接観測できるものではない。
現実世界で見ることも、手で触れることもできないのだ。この点、事実よりも思い込みや妄想に近い存在だ。真実なのにな!
思い込みと真実を分けるポイントは、事実に立脚しつつ、その誤差を消去できているかどうかだ。

2. 平均では誤差は消えない

誤差を消すにはどうするか。先生は「平均という手段がある」という。
サンプル数や測定回数を増やしていけば、測定値の平均はある値に収束していく。なるほどその値が真実なのだなと思って聞いていたら、先生は「それだけでは問題がある」と言った。
誤差には偶然誤差と系統誤差があり、算術平均で消せるのは(真実の値の±両方向に均しくばらついている)偶然誤差だけであって、系統誤差は消えないのだ。
系統誤差とはすべての測定にかかっている一定方向の歪み、つまりバイアスのことだ。
昔俺の実家にあった体重計は、何も載せていないときに+2kgを指していた。この2kgが系統誤差だ。
この体重計を使って俺の家族の平均体重を算出したらどうなるか。家族全員を計ってみても、結果は真実から2kgずれているだろう。
系統誤差を放置すると、観測範囲を目いっぱい広げても真実に辿り着かないのだ*1

3. 測定の前にキャリブレーションせよ

先生は「系統誤差を排除するために、測定器をキャリブレーションすることが必要です」と言った。
キャリブレーションとは「値が分かっているものを測定器に測らせてみて、正しい値を出力するかチェックし、調整する」ことだ。
何も載っていない体重計が+2kgを指すなら、0kgを指すように調整してから測定を始めるのだ。

キャリブレーションのないプロセスは真実を出力しない

俺は系統誤差とキャリブレーションという言葉を知らなかった(=概念が頭になかった)から、先生の話はたいへん衝撃的で、ステアマスターを踏みながらウーンと考え込んでしまった。
いまの話は、つまり

  • キャリブレーションのないプロセスでは系統誤差が温存される
  • 系統誤差を温存するプロセスに事実を入力しても、真実は出てこない

ということだろう。ところが我々のまわりには明らかにキャリブレーションのないプロセスがたくさんあって、事実を入力して何らかの判断を出力している。これらはすべて系統的に間違っているのではないか。
会社の中で言えば、経営判断全般をはじめ人事・採用・見積りなど、キャリブレートされていない活動がたくさんある。


会社の外で言えば、刑事裁判なんかどうか。
非常識な判決を書くと左遷される、といった圧力は裁判官にもかかっていると思うが、それはキャリブレーションとは言えない。
裁判官に対するキャリブレーションとは「無罪(有罪)だとわかっている被告を与えてみて、正しく無罪(有罪)判決を書くかテストする」ことだ。
だが裁判の外側で有罪/無罪を決めることはできないから、テスト用の被告を用意することは不可能で、裁判官をキャリブレートすることはできない。
よって、裁判官の書く判決には系統誤差が温存されている。ということになるのではないか。


...等など、色々なものが疑わしく見えてきて、実は上の話はもう4ヶ月ぐらい前のことなんだけど、未だに世界の見え方が変わったままになっている。

*1:ここで思い出したのが「観測範囲が狭い」という言葉だ。偏った意見に対して「サンプル数を増やせ」という意味で使うのだが、観測している本人の系統誤差を正さないなら、観測範囲を広げても何にもならないのだ。それどころか逆に偏見が強化されかねない