「フォトリーディングはテクニックではなくアプローチ」


http://d.hatena.ne.jp/yousanotu/20080308
↑ここのブログ主氏がフォトリーディングに対して懐疑的で「高額のセミナーやってるけど習得率はどれぐらいなのだろう?まさか習得率が0に近いなんてことないよな」と書いていたので、俺の出番だと思って「1クラス40人のうちで、半年後にまだフォトリーディングやってる人は1-2人という感じです」てコメントしてきた。
別の人が「NASAフォトリーディングの効果を調査して、否定的な結論を出している」ていう情報をくれたりして、「フォトリーディングはやっぱり怪しいですね」という話でコメント欄は終了したんだけど、自分にはそれなりの効果があったわけで。
結局、フォトリーディングとは何だと思えばいいのだろうか。

アプローチ=方便

フォトリーディング講師の岡本吏朗氏が何年か前のニュースレターで「フォトリーディングはテクニックではなくてアプローチです」と書いていた。
横文字ばっかりで何言ってるのかよく分からなかったのだが、最近意味わかってきた。


多分こういうことだ。
フォトリーディングの体系はある境地に至るための方便に過ぎない。
その体系が言うことを真面目に検証すると「インチキだ」という結論になってしまう。
だが、とりあえずそれに乗っかってしまえば向こう岸まで運んでもらえる。
それはただの方便なので、向こう岸に着いたら乗り捨ててしまえばよい。


テクニックなら大事に育てていかなくてはならないが、アプローチならばある時点で捨ててしまってよい。
「術」の世界*1にはこういう話がいろいろある。
例えば整体師の池上六朗氏が、整体についてこう言っている。

身体(からだ)の言い分 P-69
催眠なんかもそれと一緒で、最初はやり方で教えるんです。実際に鈴を持たせたり。
でも実際は、鈴を持つのが必要なわけではないことが分かってきます。イメージどおりに
なる、と自分で強く思うことが、大事なんですね。治療も同じです。肩が痛いのは、関節が
こうで、ここの筋肉がこうなっているから...と思っている人は、思っているからそのとおり
にしないと納得しないだけのことで。納得さえすればいいんですよ。術者が。

この先生は、自分が気持ちよくなっただけで、患者も影響を受けて楽になってしまう、そういう境地に今は居るのだそうだ。
フォトリーディングの手続きは、催眠術なら鈴・整体なら理論にあたるのだと思う。


あと論理哲学論考 (岩波文庫)の最後にもそんなこと書いてある。

6.54
私を理解する人は、私の命題を通り抜け ... 最後にそれがナンセンスであると気付く。
...
(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。)
私の諸命題を葬り去ること。そのとき世界を正しく見るだろう。

それには意味はないことを悟る、その境地に辿り着くために、それを学ぶわけだ。
「こんなものどうでもいい」と分かった時には、もう成長は完了している。

*1:同じことをやっても、人によって結果が異なる世界。非・科学的な世界