安易な極論イクナイ


足立恒雄「無限のパラドクス―数学から見た無限論の系譜 (ブルーバックス)」を読んでわかったこと。

P-59
A1, A2, ..., An, ... でもって、例えば半径1の円に内接する正n角形の列を表すとする。
limAnでもって、Anの極限を表すとすれば、これは半径1の円である。この例、また線分の
分割の極限が点であるという例から、極限は元の列が持っていた(多角形であるとか、線分
であるという)性質をもはや持っていないことが多いという重要な事実が指摘される。

極論は論点を鮮明にするのだと思っていたが、話があさってに行ってしまうこともあるのだ。
「お前さ、それって極論言うと○○ってことにならないか?いや極論だよ。でも極端なこといえばそういうことにならないか?」とか偉い人に上から言われることがよくあるけど、あれは雑な議論なのだ。
「お前さ、三角のものを四角にしましょうって言うけど、それって極論言うと円てことにならないか?尖ったところがなくなっちゃってもいいのか?」みたいな。

同書から「話を無限まで引き延ばすと、前提が変わってしまう」という話をもう一つ。

P-219
無限部分集合には必ず等しい濃度を持つ真の部分集合が存在するのである。
...
わかってみれば矛盾でもパラドックスでもない。それは無限集合を特徴付ける基本性質で
あったのだ。というのは有限集合ではけっしてこうしたことは起こらないからである。
すべては、有限で成り立つ性質は無限でも成り立つべきであるという思い込みに起因して
いたことがはっきり認識された、というのが、カントルの業績が革命であり、パラダイム
の転換であるゆえんである。