自分がWikipediaを信頼していない理由がわかった

梅田望夫 ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書) を読んだ。
すいすい読めたが、P-187「ネットで信頼に足る百科事典は作れるか」だけがひっかかった。
このパートで、日ごろ考えないようにしているソースの信頼性ということを考えさせられたので。

私は Wikipedia を信頼していないが、何でだろう

結論、Wikipediaを信頼しているかといえば、信頼していない。
これは当たり前のことで、あるメディアを名指しで「信頼してる?」と聞かれたら、なかなかハイとは言えない。
例えば「あなたは朝日新聞を信頼しますか?」なんて聞かれて、「はい、僕は朝日新聞を信頼します」と答えられる人がいるのかな。


とはいえ、Wikipediaは私の中で、朝日新聞よりさらに1ランク低い信頼度に位置付けられている。
具体的に言うと、「ソースは?」と聞かれたときに「朝日」と答えるのはアリだが、「Wikipediaに書いてあったよ」と答えるのは何か恥ずかしい。何でだろう。
よーく考えてみると、やっぱり「匿名だから信用できない」と思っている自分に気づく。
同時に、「人は匿名では嘘を書き散らし、実名では本当のことを書く」という考え方は絶対間違っている(ていうか逆じゃないの)とも考えている。
だったら俺、結局何考えているのだろう ... ということを考えさせられたわけです。

属性「信頼に足る」が帰属する器はどこか

同書には「Wikipediaとブリタニカの正確さは同程度だと、ネイチャーが書いた」という話が出てくるが、そういう客観的事実をいくつ見せられても、私の Wikipedia に対する印象が変わることはない。
「信頼に足る」かどうかは Wikipedia 自体の属性ではない。
「信頼に足る」は、読み手とWikipediaとの間の関係、T字形で言えば「読み手.ソース」対照表に帰属する属性だ。
だから、権威のある雑誌が Wikipedia の正しさを証明したところで、私の主観を変える何かが欠けている限り「信頼に足る」属性はfalseのままだ。
そもそも、新聞やテレビの正確さなんて、測ったことがない。
それでも、テレビが「事故があった」「台風が来た」といえば、私は「あらそうなのね」と鵜呑みにしているのだ。
メディアの客観的な正確性なんて、はなから気にしていない。正確であることと信頼に足ることは全く別物だ。私の中では。

信頼できないのは、割引計算ができないから

あらゆる情報は出し手に有利だから公開されている。
みんなそう知っているから、誰でも情報を受け取る時は、「誰が言っているのか」を見て適当に割り引いて聞いているのだ。
蛯原ゆりがほんとにあのハンバーガー食ってるわけないよな、みたいな。
ちょっと前の日経に、新聞の再販制度維持についてアンケートとったら支持率がこんなに高かったのですが、みたいな記事が出ていた。
私はふだん日経の記事を疑ったりしないが、こういうのはフーンと聞き流すしかない。
既存のメディアが「信頼」できるのは、こういう割引計算が自分なりにできるからだ。
Wikipediaではこの割引計算ができない。だから、そこにある情報は匿名の投書を読むのと同じ構えで受け取るしかない。


同書P-188に、メディア企業の幹部がWikipedia上の自社情報を見た時の反応が書かれている。

大概の質問は、誰が何の資格でこれを書いているのかということと、間違いも一部にあるから
信用できないじゃないか、というところにに落ち着く。

「誰が何の資格でこれを書いているのか」という質問は、この割引計算をして情報を消化しようという意志を表していると思う。
これは健全な反応であって、別に自社のことを悪く書かれたおじさんが怒っているわけではない。