いかに生きるべきか


昭和十三年に初版が出た、当時80代の禅僧の講話集を読む。

禅談

禅談

いかに生きるべきかという問題にいまさら独創的な解が残されているはずもなく。戦前に答えはほとんど出揃っていることが分かる。

P-110
たいがいの問題はじっと三十年辛抱しておれば解決してしまう。
もう八十にもなれば「あんなことがあったなー」ということになってしまう。

P-280
採用試験を受けて、通るか知らん、通らぬか知らん、と心配して神経衰弱になってやって来た奴がある。
「お前が通らんなら、お前よりよい奴が通るのだから、よいじゃないか」と言ってやったら「へー」と、狐につままれた
ような顔をしておった。おれさえ通ればよい、あいつが通ったら口惜しいというような奴は通らんほうがよい。

P-54
仏教には、「願(がん)」というものが、どうしてもなければならぬ。
...
ところが世の中の多くの人間が、ことごとく願なしで生きているから、気まぐれになってしまう。
...
食うために職に就くのではなくて、願のために職に就くのである。願を成就させるために職を用いるのである。
願のために飯を食う、願のために着物を着る。一切の私の生活は、この一つの「願」のためにふり向けられて行くのです。
我々には、この生活をふり向けて行くところがないと、まるで夢遊病者です。願がなければ幽霊です。ブラ提灯のようなものです。
もし願がなければ、金さえもらえばどんなことでもするのです。

「願のために職に就くのである」とはっきり言われると、好きを極める・好きなことをして飯を食う、といった考え方が薄っぺらい理由がよく分かる。
願の成就の過程には嫌いなこと・不快なことがきっと含まれている。現時点の好き嫌いに左右されることを選択したら、願を捨てねばならなくなってしまう。