フューチャリスト宣言で10年前を思い出した話


大学で初めてインターネットというものを使っている人に会って、大変焦った記憶がある。
社会に出たら、世界中の英知を集結できる人と、丸腰の自分が闘わねばならない、という恐怖感。
あれから10年経って、ネットから世間に届いたものといえばYouTubeでありmixiであり2chであり、要するにネットはお勉強じゃなくて暇つぶしの道具になった。
「これからは知識を頭に溜め込むことの価値はなくなる。何でも瞬時に検索できるようになるのだから」という予言は学生さんのコピペレポートという形で実装され「やっぱ頭に叩き込まないと意味ないよね」という方向に議論が変わった。インターネットで俺の人生に何かすごいことが起きるという期待はどっかに行った。
が、「フューチャリスト宣言 (ちくま新書)」を読んで、インターネットという言葉がなんとも眩しかった10年前の感覚を思い出させられた。

茂木 考えてみると、本気でネットを使い尽くそうと思ったら...。
梅田 考えられない効率が出ます。だいたい僕は朝四時か五時に起きるのですが、八時までには、
昔だったら丸一日かけてしていた仕事が終わっていると感じることが多いです。

茂木 ネットが提供してくれる、とてつもない条件に気付いてしまったんです。ネットは、人間の
学ぶ喜びを深め、加速する。いま、猛勉強しようと思えば、たとえば物理でいうと、超ひも理論
関する最新の論文だって、ネット上にいくらでもただで載っている。
...
まさに「知のカンブリア爆発」です。しかも、一部の特権的な人にだけでなく、あらゆる人に、
発展途上国の人にも、その可能性が広がっている。基本的な認識はそこなんです。

子供のころからネットがあった世代には、この「ネット超すごい」という感覚はわからないだろう。確かにネット使い始めの頃はこういうのを期待していた。
当時は何だか急に青天井の世界に飛び出たような、自分の能力が強烈に増幅されたような、実にいい気分だった。


この気分については思うことが2つあって、まず「ネットで能力を増幅する」というのは幻想でした。
情報はいくらでもあるがそれを咀嚼するのは残念ながら自分なのであって、例えば「超ひも理論に関する最新の論文」は英語が読めなければどうにもならないんでしょうね。
能力の高い人(茂木氏)はネットの出現で制約条件が外部環境から自分の中に移動して「すげぇ!」となったのだろうが、普通の人にとっては制約条件はもともと自分の中にあったのだから、別に何も変わらない。むしろネットのせいで消化しなきゃならない情報とさぼりの誘惑が両方いっぺんに増えたような感じ。


もう一つは、10年前に期待していたような、使うと頭がよくなるサービスができたら、暇つぶしのサービスに比べてユーザは少ないだろうけど、本当に意味のあるものになるし、その方面の可能性はまだ深掘りされていないということ。
能力の増幅は幻想だったけど、毎日ちょっとずつ賢くなるためのWebアプリケーションならできそうな気がする。自分でも一個作ってみようなんて思ったりして。