失敗が重要なのは、それが成功の母だからではない


G.ベイトソン精神と自然―生きた世界の認識論を読む。
この人は生態学者だが、書いてることがデータ設計と関係ありそうで気になる。

  • モノではなく関係を見ること
  • 論理の「階」を識別すること

への徹底したこだわりが、設計手法に取り込めそうな予感を呼ぶ。

以下は論理の「階」を間違っているため実験結果を解釈できない心理学者を批判してるところなのだが、
これを読んで、人生の中で失敗することの価値が分かってしまった。

P-167
電気ショック装置のついた箱を多数用意してネズミの前に並べても、ネズミの探究心
を殺ぐことは決してできない。この事実に心理学者たちは頭を抱えている。
いくら罰しても、ネズミの学ぶことは、一度電気ショックを受けた箱の中は突っつくまい
ということだけで、箱というものの中を突っつくべきではない、ということは一向に学習
しないのである。


...箱というものの中は探るべきではないということを学んでしまうことが、ネズミにとって
いかに好ましくないことか、少しばかり感情移入をしてネズミの視点からものを見れば、す
ぐに気づくことだ。
箱に鼻を突っ込んでショックを受けた経験の意味するところは、その箱の中にはショックが
待っているという情報を得ることができた、という肯定的なものに他ならない。探求の目的は
探求自体の是非を知ることではない。探求の対象に関する情報を得ることである。

私の成功が、ネズミと同じく「世界を知ること」にあるのだとすれば、だ。
私は何か新しい挑戦をする度に、成果があろうが損しようが、常に成功していることになる。
私は、ある箱の中身がウマいこと知り、別の箱の中身がマズいことを知る。どちらも箱の中身の探求に成功している。
次の箱を見つけたら迷わず開けて中の味見をする。箱を開けさえすれば、探求の結果は常に成功だ。
失敗というものは、次の成功の糧になるから価値があるのではない。こりゃーダメだと分かったこと自体が報酬なのだ。
自分はこれを屁理屈ではないと感じる。
おっさんになって、サクセスしたいwwwという気持ちがなくなった今、自分のゴールはせいぜいこの辺りにある感じる。
昨日よりも広く深く世界を知る。死ぬ日まで賢くなりつづける。


問題点が2つ。
まず、成功が約束された「新しい挑戦」の定義が分かっていない。
転職に失敗した見た人が、全く違うタイプの会社に転職するのは、新しい挑戦なのか、足踏みなのか。
また痛い目を見たら、それは探求に成功したのか、同じ間違いを繰り返しただけなのか。
もう一つ、何でも探求すりゃいいってもんじゃないということもある。
その後の世界の探求に支障が出るような結果は、やっぱり失敗なのではないか。
例えば、株で1000万損して「いい勉強になった。賢くなった」とか吹いてていいのか。
... という疑念を抱えつつも、新しく、正しい挑戦であれば、結果は常に成功なのは確かだと思う。